「フィルム No Damage」を観てきました。「No Damage」は初見ですが、'85年頃は何度も「TRUTH」を見ていたので、自分もノスタルジーが喚起されるかな?と思ってましたが、それをまったく感じることなく、最後までただただ「圧倒」されました。
冒頭、「レイディオ」の出だし、ピアノが鳴ったところで、まず唖然。「これはパンクじゃないか!」と。ベン・フォールズ・ファイブの1st.を彼らより10年も前にやり切っていた...とでも言いましょうか。その後も曲が進むにつれ、ロックンロール、R&B、フォーク、オペラ、サーカス、コメディ、乱痴気騒ぎ etc... と、ロックに必要とされるほぼすべての要素がステージ上で再現されていることに気がついたとき、NYCに行った理由がリアルに掴めた気がしました。デビューしてたった2〜3年であそこまでやり切ってしまったら、拡大再生産すら無理ですよ! もう拡大しようがないですもん。NYを通過してファンクやヒップホップ、ソウルといったブラック・ミュージック(そして「Cafe Bohemia」以降のリズムの旅)に向かったのは、アーティスト佐野元春にとって、生きていくための必然だったんだろうな、と。
9月の映画上映後、巷ではきっと「80年代の元春は凄いエネルギーだった」という声がたくさん聞かれると思います。ただ、そのエネルギーって「若さ」という単純な理由なのか?というのを映画の後半、ずっと考えていました。そして気がついたのは、器用に上手くやらないことによる圧倒的な力なんじゃないか?ということでした。今も昔も、上手く器用にそつなくこなすことが、そこそこ世間の評価に繋がるわけですが、器用も上手も関係ないところで、メーターがレッドゾーンまで振り切れた巨大なアンサンブルを作る。それがThe Heartlandというバンドだったんだな、と思いました。
Twitterなどの意見を読んでいると、やはりブルース・スプリングスティーンとの比較論が出てくるわけですが、ライブ・パフォーマンスにおいてはリファレンスとしたところもあるでしょう。でもね、ボスは「River」を演奏する前に5分とか時間をかけて丁寧にストーリーテリングをするわけだけど、「No Damage」の佐野元春はMCをやっている雰囲気がない。当時のステージを観ていた人に聞いてもMCはほとんどなかったと言う。ボスは「River」で歌う若き男女のストーリーをオーディエンスと共有するために、違うストーリーを前置きする必要がある(そしてストーリーテリングは曲と同じくらい素晴らしい)。しかし、「ハートビート」で歌われる若き男女のストーリーは、なんの前置きもいらずそのままダイレクトに我々聞き手に伝わってくる。それは日本と米国の違い、単一民族と多民族の違いなど、いろんな違いがあるわけだけど、それこそボスと佐野元春の根本的な違いであり、「ハートビート」の前に5分間のMCが必要ないことにしっかり着目すべきだと思う。
ベッドイン・コメディは......ああでもしないとヒリヒリした感情をそのまま提示するわけにはいかなかったのかな? パントマイムなコメディと最後の台詞に込められた楽観性は、何かヒリヒリした感情を包むための巨大なオブラートだったんじゃないかと。それが「VISITORS」で裸のまま表現されたものと同一なのかどうかは、自分の中でまだ定かではないですが。
...長々と書いてしまいました。銀幕の中のロック演奏を楽しみつつ、こんなことまで考えてしまうのは、まさにラストワルツと同じです。時代を超えた記録物としてのクオリティがとても高い映画でした。