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初出:2008年10月20日 10:12

(2)の続きです。

イベントがスタートして1.5時間を経て若干の休憩(藤やんのトイレ休憩である)。そして第二部に突入。冒頭は嬉野節から始まる。「今は生きるのにしんどい時代」と、なんとなく日記調に話が進んでいく。この手の話をするときの嬉野先生の視点はほんとうに独特で、「家族というのは、家族だから一緒にいるのではなく、一緒にいなければならない理由があるから、結果として家族である」という。かつては日本中がそこそこ貧乏で、食事は家族分作るほうが経済的で、外食産業もそんなに発展していない頃は、食を確保するためにみんな家に帰る。そうすると望む望まないに関わらず、必然的にコミュニケーションが生まれる。テレビも家に一台だけだけら、家族でなんとなく同じ番組を見る。でも今は真逆なわけで、家で食事しなくても生きていけるし、PCやポータブルオーディオのような個人ツールがあり、何にでもテレビがついているご時世だから、家族が一緒にいる理由が希薄になる。そうすると「自分」の存在を確かめる機会も少なくなり、結果として自分が存在する理由すらなくなっているのではないか? という、まさに嬉野理論。

そんな中で「どうでしょう」は、4人が一緒にいなければならない理由があり、寄り道はすれど目的地が明確であるという安心感もある。で、4人はのんびりやっているもんだから、観ているほうもホっとできる。もし40年前にどうでしょうがあったら、あまり流行らなかっただろうと嬉野先生は言っていました。それは、実生活の中にホっとするものがあったからであり、今はそれが無いからどうでしょうが受け入れられているんだと。なるほど、たしかにそれはその通り。前にこのブログでも書きましたが、今のところの最新作である欧州完結編とか、うらやましいくらい良い旅してんなーと、観ていて安堵感がありますからね。

そして、今回のイベントの、個人的には一番の核心部分だなと思ったのが、藤やんが例の「鳥取砂丘」について言及したことです。「砂、砂ねえ」と含みをもった言い方をしながら、次の瞬間には捲し立てるようにこんなことを言ってました。まず、キー局が全国ニュースとして砂の一件を取り上げたことに少なからず憤慨してましたね。砂丘に文字を書いたことが広告掲示に該当するという条例に引っかかったわけだけど、条例をやぶったのは悪い。しかしそれを破ったことで誰かを傷つけたか? そもそもそんな条例はおかしいんじゃないか?と問いかけるのがジャーナリストの仕事であり、マスコミの役割なはずだと。

しかし昨今はコンプライアンスという名の下、企業化するマスコミはジャーナリズムを放棄しかけている。だから砂の一件では、マスコミ側の立場としてホームページに開口一番どのように表明するか、時間をかけて考えたと言う。会社としては通り一遍の謝罪はすぐにするだろうけど、どうでしょうファンに対して何を言うか。そこで思ったのが、何よりも「西日本カブ」が放送できなくなってしまったことへの謝罪だったと。そして嬉野さんが藤やんにこう言ったそうです。「これくらいのことで騒ぎ立てるような世の中なら、もう過去の『どうでしょう』を放送するのは止めませんか」と。重箱の隅をつっつけば同じような条例違反はたくさん出てくることは二人とも重々承知。藤やんもそのことをかなり真剣に考えたらしいんだけど、いたるところにボカシやら目隠しを入れ、「西日本カブ」の周辺を大幅にカットした「傷だらけのどうでしょう」を放送し続けることで、今の世の中におかしな空気が蔓延しているということを提起しようと思い、放送を続けているんだそうです。

例の砂丘のシーンも、カットできるならカットして放送するくらい何のワケもないことだし、そこに拘りはないと言い切ってました。でもあそこは流れやテンポを考えるとカットできないそうで、そういう意味でも今後「西日本カブ」が放送されることは、局の判断としても無いとのこと。でも「DVDは出す」と明言してました。

ここの部分の話は、ホント心底賛同しますよ。藤やんはマスコミという立場から今の社会に異議を唱えていたけど、個人という立場で見ると、最近思うんですよね。今って個人が思慮に欠いたまま自由になり過ぎてしまってないか?と。いや、自由になること自体はいいんですよ。自由主義国家だし。個々が自由を探求することは当然の権利なんだけど、権利であるがゆえに責任も問われるわけで、責任あることゆえに個々が自由について深く考える必要があるのに、思考停止したまま、結局はワガママな無責任を「自由」と履き違えているんじゃないかと。

うれしーがこんなことも言ってました。昔のカメラって、マニュアルフォーカスで絞りも露出も自分で調整だから、結果としてカメラ好きの親父相手の商売だった。家族も写真を撮ってもらうときはお父さんに、という役割があった。その後、オートフォーカスが開発されたことで皆がカメラを持つようになり、それに合わせてカメラメーカーも大きくならざるを得なかった。カメラメーカーだって自分達が身動きがとれない規模になってしまったことに気がついているはず。今でも技術競争は続いているけど、いったい誰がこれ以上の便利を求めているのか? 社会全体が思考停止しているので相変わらず「便利が正しい」という風潮だけど、実はそれは愚かなことだと。いろいろ考えさせられますね。

藤やんが言っていたことで、まだ印象的な内容はありますよ。それはパクリについて。藤やんも「パクリ上等」派のようで、クリエイターがパクるのは当たり前の行為。ただ、クリエイターのパクりは模範や継承ではあっても搾取はいけない。模範するものの本質をきちんと自分なりに咀嚼して、反芻して、自分の表現に活かせればパクリ上等ってな感じです。いやあ、まさに仰るとおり。

藤やんとうれしーの対談はそろそろお終いの雰囲気。今までの話を総括して藤やんは「100万人を喜ばせるものを作ろうとしても作れないが、あんた(嬉野さん)を喜ばせたいと思って作っている」と言い切ってまして、これには感動しましたね。うれしーはすかさず「論語で同じような意味の言葉があったよ」と言ったもんだから、藤やんは「孔子も言ってましたか! テレビ界の革命児と言われてもよくわからんから、テレビ界の孔子でいこう!」と大笑い。うれしーが退場したあとは冒頭の話に立ち戻って、テレビは面白くなくなったけど、それでもテレビはまだ最強のメディア。環境さえ変えていければ、まだまだ面白くなる。でも東京にいると変化するのが当たり前すぎて、逆に変化に疎くなる。だから地方が変える役割を担うんだと。すべてのものが社会の要求があって成り立つのだから、テレビは社会にどう貢献すればいいのか? 以前「お金儲けして何がいけないんですか!」と言ったヤツがいたが、お前は社会にどう貢献したんだと問いたい、とも言ってましたね。

こうやって考えていくと、テレビマンとしてまずはスポンサーに誠実に番組を作る。それはつまりスポンサーの顧客である視聴者に対して誠実であるべき。テレビが視聴者にとって良質なものであれば、それにスポンサードすることで企業価値も上がるということを、まずはスポンサーに教育していきたい。そうして良いコンテンツを見極める力を企業がもてば、自ずとビジネスモデルは出来上がっていく。

そんな風に3時間強のイベントを締めて、藤やんは退場していきました。

まあ、中にもちょこちょこ書きましたが、いろいろなことを考えさせられましたし、実りの多いイベントでした。最後にアンケート用紙を回収していたので、慌てて書き始めたわけですが、えーっと何だっけかな、「あなたがこのイベントを通じて、何を考えましたか」みたいな質問がありました。3時間強のイベントでしたからね、数十秒でそれを咀嚼して書けってなかなか難しい。半分苦し紛れで「自分が変われば、世界は変わるってことですよね」と書きました。こうしてイベントをまとめてみた今にして思えば、あながち外れていないと思います。はい。

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