「コヨーテ、海へ」。この曲は、アルバムにおける最大の核心といえる曲です。もちろんアルバムタイトルナンバーであるから、そのアルバムを象徴する曲であることは、誰にでも容易に想像がつきます。しかし、この曲は「COYOTE」という音楽アルバムの「象徴」ではなく「核心」、言い変えるならクライマックスなのです。「星の下 路の上」から始まったアルバムの旅は、この曲に向かわせるための40分強の道程だった、と考えても良いと思います。
よくロック評論などに「○×というアルバムの核心に迫る」などという物言いがありますよね。つまりアルバムを一聴したくらいでは核心に迫れない分、評論という形でなんとか切り込もうとするわけです。そんな難解だけど研究に値するアルバムというのは古今東西多々あります。しかし「COYOTE」というアルバムは、その作品の核心・本質が、長尺でドラマチックなタイトルナンバーとして提示されているので、誰でもすぐに「COYOTE」の核心にアクセスできるんです。とても懐の広いアルバムですよ。
そして「コヨーテ、海へ」は、非常に衝撃が強い。初めてこの曲を聴いた時、椅子から転げ落ち、聞き終わったあとはしばらく放心状態になりました。完全にやられましたね。申し訳ないですが、続く「黄金色の天使」の印象が最初の頃は薄かった。それもこれも「コヨーテ、海へ」を聞く度に軽い放心状態になるからなんです。さすがに20回とか聞いているので、もう比較的冷静に「黄金色の天使」も楽しめるようになりましたけど。
やられる条件が揃っているんですよ。冒頭から「宇宙は歪んだ卵/世界中に知らせてやれ」ですよ! これだけで心がすべて奪われます。思えば「The Circle」の1曲目「欲望」の出だしも同じでした。「物憂げな顔したこの街の夜/天子達が夢を見ている」。当時、友人とこのアルバムを聞いて、あまりの衝撃にあんぐり口が開いたまま閉じられなかったことを思い出します。
音楽としては極端にドラマチックな展開はなく、7分半の間、わりと淡々と演奏が続いていきますが、裏で鳴っているストリングスの旋律が素晴らしい。そしていろんな楽器が、歌に呼応するかのようにハっとする演奏を聴かせてくれるのです。特にフリューゲルホルン。おぉ、あの曲のワンフレーズが!
「コヨーテ、海へ」には、他の曲のように君も彼女も僕らも登場しません。「君」は出てきますけど歌いかける対象ではなく、完全なる独白です。「コヨーテ、海へ」というタイトルなので、独白しているのはコヨーテということになるんでしょうが、それはあくまでも表現上のテクニックであり、やはりこれは佐野元春の独白だとしか思えない。
それはなぜか? 前作「The Sun」のエンディングである「太陽」と真逆ながら対を成す曲だと自分なりの解釈があるからです。あの曲では、残酷な現実と対峙しながら「夢を見る力」を希求し「無事にたどり着けるように」と希望が歌われていました。歌いかける対象としては、絶対的存在であるGodがいます。そう、傷つきながらも「生」を継続するための祈りのような歌です。一方「コヨーテ、海へ」は、残酷な現実の中「もう夢など見ない」「希望は切ない」「愛は儚い」「正義は疎い」と言い放ちます。この時点で歌い手のマインドは傷つくのを通り越して、たぶん血まみれです。そして今はただ生命の根源であり、「自分という個の根源」の象徴である「海を目指す」と歌われています。歌の中の存在感として、海とGodは対等です。そして海にたどり着ければ「ここから先は勝利あるのみ」だと。それゆえに「自分自身でいること」を希求し、「俺たちきっとどこかで会えるはず」と希望しているんです。これこそ「太陽」と真逆を成しながら対になる根拠です。
作家としての佐野元春は、コヨーテを海へ向かわせたわけですが、それと同時に表現者として、100パーセント自分に内在するものを出し切っていますよ。個の尊厳、生の尊厳こそがこの世界で慈しむべきものである。このテーマに対して、前作の「太陽」と今回の「コヨーテ、海へ」は、ものすごいパワーでもって表現していると思うのです。
さらに、日本語によるロック表現はここまで極まるものなのか!? と思えるほど素晴らしい。
“ここから先はショウリアル/ショウリアル/ショウリアル
勝利あるのみ
ショウリアル”
佐野ROCK、ここに極まれリ、である。これを初めて聞いた時に、椅子から転げ落ちたんです。
続く「黄金色の天使」。アルバムのラストトラックはこの曲しかあり得ない、というくらい最後に相応しいミドルテンポのフォークロック。この曲は近年の佐野さん(特にCOYOTEの中)としては珍しく、あらゆるメロディラインがしっかりしている曲。特に歌メロやコーラスラインは歌謡曲にも通じるくらい分かりやすい。そして詩の内容も含めて、どこか郷愁を覚える。いや、歌われている内容は決してノスタルジアではなく、長く一緒にいた者同士の別れを瞬間を歌っているわけだけど、メロディやアレンジ、コーラスなどが一体になることで、歌の中では描かれていない「過去」をも感じることができるわけで、これぞポップ音楽のマジック。
映画的に考えると、コヨーテは最後に海に辿り着いたところで息絶えるんでしょうね。そして走馬灯が巡るなか、最後の最後で探し求めていた黄金色の天使に迎え入れられるのでしょう。こう書いていると、なんだか「Wild At Heart」のエンディングみたいだな。
1ヶ月かけて、こうして「COYOTE」の楽曲に1曲ずつ向きあってみたわけだけど、発売されてから1ヶ月、未だに不思議なのが「明るい」「清々しい」という意見があることと、その意見に対して異を唱える気になれないところなんです。歌の世界だけ追っかけていけば、決して明るいアルバムではなく、とても儚い想いに包まれる、そんなアルバムなのにね。
思うに、「COYOTE」から滲み出てくる“儚さ”というのが、今の世を生きる我々にとって大切なものであり、ポジティブなものなのかもしれない。儚さは不合理なもの故に、その不合理さを克服することこそが現代のムードである。しかし人の感情や感覚は儚いからこそ慈しむものなわけで、こういった心の機微がロックという音楽様式の中で、ここまで真摯に鳴らされた「COYOTE」は、非常に日本的なアルバムであるし、やはり一家に一枚なアルバムだと、ここでまた強く言い切りたいわけです。