佐野さんが『Coyote』を語る時、最初に「現代は荒地」と定義している。ここには何の異論もない。それどころか、千里眼をもった人が、さまざまな洞察の果てに紡ぎ出した言葉としての「荒地」ではなく、もう誰が見ても明らかなくらいの「荒地」だと思う。
例えば、警察庁が先日発表した自殺者の統計。去年は32,000人だという。この数字にピンと来ないかもしれないけど、10年前の1997年は24,000人。ところが1998年を境に一気に3万人越えをして、そこからは8年連続このペース。しかも警察庁が把握している件数なので、行方不明者の数は入っていない。
世は格差社会。「勝ち組」「負け組」の二元論で括ることで、自分の立ち位置をキープすることに腐心する人たちが山ほどいる。でも僕なんかが見るといわゆる「勝ち組」の人たちのほうが不幸に見えるんだよね。金や地位や名誉…、そんなのいつまでも手元に置いておけるものでもないんじゃない? 人の幸せが、金が産む快楽にすり替えられているんだとしたら、それはむちゃ不幸なことだよ。
数カ月前から頻出している、身内のバラバラ殺人だとか、子供が親を殺すなど残酷な事件。「コヨーテ、海へ」の中で歌われていてビックリしたのが「毎日の猥雑なニュースに/神経をやられちまいそうは日々」という一節。まさにそのとおり。朝からそんな報道ばかりされてた時は、本当に参りました。これ以上テレビをつけてたらマズイ、吐きそう、どうにかなるって真剣に思ったもんね。
他にも挙げようか? この世が荒地だって、いくらだって立証できるよ。
誰がどう見たってそういう状況なのに、みんな見事に目を背けているのを感じる。行き過ぎたキャピタリズムも恐いけど、最近それ以上に、マスメディアによる「日常の操作」を恐ろしく感じるんだよね。息詰まる日常のガス抜きっていうならそれもありだけど、バラエティや矮小な情報番組からは「何も考えるな、考えたら損するだけだ」って言われている気がする。そして、どっかの誰かにとって都合の良い価値基準を植え付けている…気がするのではなく、これは本当にそう思う。
『Coyote』には明確な主人公がいる。コヨーテ男だ。そしてこの男の12篇の旅の記録という形態をとっている。1曲目の「星の下 路の上」で、軽快なロックンロールに乗って登場するコヨーテ男は、路上に立ち「死ぬまで悩み尽きない」と言う。そしていきなり核心に迫る「荒地の何処かで」において「真実が醜い幻ならば/ぼくらは何を信じればいいんだろう」と嘆く。たしかに前述した世の風潮を考えると醜い幻にしか思えないよね。でもそこは佐野さん。佐野元春流の楽観主義とも言える「荒地の何処かで君の声が聞こえる」というフレーズに救われるわけです。最後はハレル〜ヤなわけです。
…とまあ、こんな感じで、収録曲をひとつひとつ見ながら『Coyote』が、いかに今の日本を捉えたアルバムなのか考えていこう。音楽が我々の生活に欠かせないものなのだとしたら、2007年から続く将来において、『Coyote』は一家に一枚的なアルバムだって持論を貫いていきますよ。では、また後日。