僕は小説より雑誌をよく読む。一人でランチを食べるときなど、雑誌がないと何となく不安なのだ。小説は、読み始めると早いのだが、そこに行くまでの気力と理力が足りないんだよなあ。
…で、一人ランチの前はたいてい本屋に行って、雑誌を物色する。そんな状況で先日見つけたのが「BACKBEAT」。この手の雑誌は、Beatles、Zep、Queen、Stones、Dylanなどを特集にもってきて、彼らの功績を酒の場でさも物知り顔で語れるように知識をまとめてくれているという、なんともしょーもないものだ。この「BACKBEAT」という本も、そういう居心地の悪さを感じる雑誌なんだろうなと思いつつも、表紙のLennonがとても良い感じだったので、恐いもの見たさで買ってみた。わずか100頁で760円。いい商売しているよな。
案の定、たいした内容ではなかった。巻頭はLennonが殺された夜、あなたは何をしていましたか? という記事で、いろいろな芸能人のコメントなんかが載っていたりする。その後も、Stonesのニューアルバム発表記者会見やら、来日直前Jeff Beck、といった親父向け記事が続く。いや、この手の記事を作ること自体は親父向けとは思わないのだが、その記事の内容が完全に「昔は聞いていたでしょ? あの頃は燃えましたねー」という、現代感覚が完全に欠如したニュアンスのオンパレードなのである。
まあ、ここまでは想定の範囲内。だが、この後で、決定的に激怒し、ランチの最中に雑誌を叩き捨てようと思わせてくれる記事に出くわしたのだ。
記事の表題は「ブルース・スプリングスティーン 歌詞の世界」
これは良い視点だと思う。ボス自身も『River』を制作しているときに「フィルスペクターのように曲を作り、ディランのように詩を書き…」という発言をしているくらい、彼の歌詞というのは重要なファクターだ。ちなみに、この発言の最後には「そして何よりもロイ・オービソンのように歌いたい」と語っている。泣けるね。
以下、括弧内の言葉はすべて、BACKBEAT P.32の記事からの引用とする。
…で、その詩の世界を考察する前段として、ボスは日本で誤解を受けてきたと書かれている。ようはBorn in the U.S.A.を熱唱するナショナリズム的なアーティストであるって論点だ。まあ、よしとしよう。そしてこの誤解の一因として、日本にボスと似たスタンスにあるアーティストがいないことを挙げ、日本のスプリングスティーンとして佐野元春や浜田省吾の名前がよく出るが、それは根本的な間違いとしている。なぜかって? 「彼らは育ちが良すぎる」んだって。なんだ、そりゃ。これを書いている五十嵐 正という人が言うには、ボスの音楽の根底には「社会階級や地域に根ざす性格」があり、ボスは労働者階級なのに対して、前述の二人は違う…という論点なのだ。アホか。Blogを見る限りきちんとした評論家のようだが、雑誌が雑誌だけに手を抜いたのか?? さらにこの後に「日本で数少ない労働者階級的な匂いを感じさせるアーティスト」として矢沢永吉を挙げ、矢沢が「もっと詩的で文学的技巧にも富み、時に社会評価性のある作品を書き、俺様の生きざまではなく、社会のヴィジョンを作品と発言で語り、日常的に社会貢献にも努めるアーティストだったら」ボスに近い存在だとしている。おいおい、やたらと多くを求めすぎてないか? っつーか、それは矢沢のキャラと完全に違うだろ。
先に引用したボスの定義に基づくなら、佐野元春はかなり近いところにいる。佐野さんとボスは、ロック音楽に対する見識がかなり近いわけで、その源流をたどると、Dylan以降の“社会に対する個の意識”、Beatles以降の“世界を超えて共有しうる歌世界”、そしてプレスリーやチャックベリー、バディホリー以降の“同時代、同世代が共感できるファンタジー”へと流れ着いていく。こうしたひとつひとつの通過点をきちんと踏まえているアーティストが欧米には多いが、日本では少ない。これは勝手な想像だが、初期の佐野さんが、さまざまな洋楽の引用を積極的に行っていたのは、音楽的な面よりも、こうしたロック音楽に対する意識を活動の足場として固めるための行為だったんじゃないだろうか。
さて、スプリングスティーン論に話を戻して、もしこの記事が位置づけるような、階級と地域性に根ざした音楽がボスの本質なんだとしたら、ワールドワイドでの成功なんてとても収められなかっただろうし、極東に住む、もろ一億総中流的な生活に浸っていた一少年が、ここまでのめり込むこともなかっただろう。記事中でも「世界中のファンの心をうつ普遍性がある」と書かれているが、じゃあその普遍性ってなんだ? という最も大事なところを端折っている時点で終わっている。ボスの音楽と80年代のアメリカの社会性をシンクロさせれば、とてももっともらしい社会派記事の出来上がり。でもそれじゃあボスが同時代性に富んだアーティストであることを証明できても、ボスの音楽の本質は証明できない。
ボスの音楽の本質。僕は、それはいつになっても「ファンタジー」という言葉で読み解けると思っている。初期の彼の歌に出てくる「車」や「反抗」、女の子の名前などは、それを如実に表しており、ストーリーが分かりやすいが故に、日本にいてもヨーロッパにいても、自分の日常に置き換えて共感できるメッセージであった。Born in the U.S.A.以降の作品でも、若者が大人になり、誰かの父親や母親になったときに対峙する、社会の中の個という存在を彼なりのファンタジーとして紡ぎ出している。そしてそれは、世界を超えて共有できる音楽になっているのである。
ちょっと前の「SIGHT」という雑誌でもボスの特集が組まれていて、そこにはボスがステージ上で観客に語るMC集なる頁があった。ボスのMCが、歌と同様に示唆に富んだ素晴らしいものだというのは昔からの評価だが、改めて読んでみると、本当に凄い。それは良質の短編小説を読んでいる充足感がある。モーゼの十一番目の戒についてのMCなんて最高だ。
そんなわけで、久々に頭に来た記事だったので、ありったけの敬意を表してここに紹介する。それと同時に、ボスのライブを未だに体験できていないことが悔やまれる。ほんと、あとはボスを見れれば思い残すことないんだよなあ。