中央線に揺られながら国立で下り、多摩蘭坂*1へ行ってきた。ここに来るのはたぶん18年ぶりかな。通りの様子は少し変わったように感じたけど、あの狭い坂を登り切る手前の小さな角っこに立った時の感覚は、18年前とあまり変わらなかった。 そして「多摩蘭坂」という曲が、あの小さな坂道に潜むいろいろな景色を見事に描いてることに、改めて感服。
“無口になった僕は/ふさわしく暮らしてる/言い忘れたこと、あるけれど”
「多摩蘭坂」のこの一節を聴く度に、その意味を掘っても掘っても底がないくらいの感覚に襲われる。辛いことがあったとき、無口になって、誰にも気づかれないように生きれば、これ以上傷つかないで生きられるんだろう。そんな考えを僕の頭の中に植え付けた1フレーズ。でも、実際に無口になって、誰にも気づかれないで生きることはできない。だって、言い忘れたことがあるんだから。まあ、僕にとってはそんな歌だ。
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いい加減、走るくらいしないと体型改造(修復)が難しいかもと、この数日MBTを履いて裏の公園をジョギングしてたりする。昨晩も23時から40分間、どうでしょうの副音声を聴きながら走って、ヘトヘトになって帰ってきてTwitterを見たら物凄く嫌な文字が目に飛び込んできた。そこからの混乱ぶりはTwitterで見てもらえれば分かるとおり。その混乱は先ほど、多摩蘭坂へたどり着くまで続いた。今はすっきりしている。
多摩蘭坂に着いたのが夕方4時。あの狭い道がどれだけ人で溢れているだろうと思いながら行ってみると、数名のファンが佇んでいただけの静かな場だった。小さな石碑の周りには、ほんの少しの花束とビール缶、お香が焚かれた後が残っていた。5分くらい佇んだ後、普段使いのピックを一枚置いて帰ってきた。
帰りはそのまま来た道を戻ろうかと思ったけど、なんだか少し歩きたい気分だったので坂を登っていった。そしたらやっぱり頭の中で流れてくるんだね。「何も変わっちゃいない事に気がついて/坂の途中で立ち止まる 」という「いい事ばかりはありゃしない」の強烈な一節が。この歌の最後の舞台もやはりこの坂なんだろう。
清志郎は本当にたくさんの曲を作ってきた。警察や政府、エスタブリッシュメントを揶揄する反体制ソングも最高だし、世間に波風を立てるプロテストソングもいい。だけど今、僕がたくさん聴きたいのは清志郎が書く抒情詩だ。悲しい気分になりたいわけではなく、先ほど書いた、掘っても掘っても底がない表現に触れたい気分なので。「帰れない二人」「甲州街道」「いい事ばかりはありゃしない」「IDEA」そんな曲をたくさん聴きたい気分だ。
最後に、2009年5月3日 1:31、訃報を知った後にmixiへ書いた日記を転載する。最初はブログにきちんとまとめる前の走り書きのつもりで書いたけど、これ以上の言葉はまだ見つからない。
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この数年、頭のどこかに、自分の中の偉人達とお別れしなくちゃいけない日がたくさん来るって意識が常にある。ディランもそうだし、ポールマッカートニーもそう。ブライアンウィルソンやニールヤングだって、5年10年20年って時間の中で、お別れしなくちゃいけない日が来る。ジョージハリスンが亡くなったときの、あの言い難いほどの混乱が、これから数多くやってくるんだろう。
でも、まさか今日、清志郎とお別れすることになるなんて思ってみなかった。これは完全に不意打ちだ。そりゃ癌なんだから予想はできたのかもしれない。でも癌じゃ死なないって勝手に思っていた。ヨレヨレになっても車いすに乗ってブルースを歌う頑固爺になるって勝手な妄想を楽しんでいた。
そうだよ。日本にはそういうブルースシンガーが必要なんだよ。新しいことなんてひとつもやらなくていい。ただマイクの前で心の底から絞り出すような声を聴かせてくれれば、それでいい。清志郎こそ、日本で初めてそういう存在になれる人だって思っていたのに。
正直、僕は日本の音楽はクソも面白くないと思っている。理由の大半は歌詞だ。シンコペーションの中で生きる詩人が日本には少なすぎる。ほんっとに清志郎は、日本のポップミュージックカルチャーにおいての偉人だった。他人がどう思おうと構わないが、清志郎と佐野元春だけでいいと思っている。
ご冥福をお祈りします。ようやくオーティスの裾に触れることができたのかな?
*1 本来の名称は「たまらん坂」ですが、京王バスの停留所の名称が「多摩蘭坂」になっているので、ここでもそう表記します。