いくつかのWebソースで明らかになったことだが、“「Macintoshの父」として知られる”ジェフラスキン氏が死去した。享年61歳だった。
さて、なぜ“「Macintoshの父」として知られる”と括弧付けで書いたかと言うと、Webソースでそう書かれていたから。だけど、本当に「父」なんだろうか? 別に父親はジョブズだなんて言う気は毛頭ないけど、いろいろと尾ひれがついたMacintosh創世伝説の新たな鰭(ひれ)に成りかねないので、いろいろと調べてみた。
ラスキン氏の発言が掲載された雑誌「Macworld Japan 1994/3 Vol.4 No.3」が手元にあるのだが、そこで氏は「(芸術家や音楽家のような)技術者じゃない人にも簡単に使えるコンピュータ」の必要性を1960年代に唱え、学位論文に「The Quick Draw Graphics System」と名付けている。そこからアップルへと繋がるまでに10年近くの歳月がかかっているが、1977年にアップルへ移り31番目の社員としてApple Iのドキュメント制作を担当したという。
その後、アップル社内にソフトウェア品質管理部門を作り、いかにしてより良い製品を作るかということを念頭においた仕事をしていた。そして1979年、256×256pxのモノクロビットマップ、プロポーショナルフォント、1,000ドル以下のプライスを目標とした「Macintoshプロジェクト」を旗揚げする。ただ、それは決してデスクトップメタファーの実現ではなく、マウスを使う予定もなかった。画面上にあるファンクションメニューをキーボードで選択していくという、完全なキーボードオペレーションを想定していたという。
そういう意味では、1984年に発表されたMacintoshは、ラスキン氏の思想というよりはXerox PARCのAltoからの影響のほうが強いということだろう。事実、PARCからアップルへと大量にエンジニアが移籍していくなかで、Macintoshプロジェクトはラスキン氏の元から引き離され、その後にアップルを離れることとなる。結局残ったものといえば、Macintoshという名前と、QuickDrawという技術名だけというわけだ。
これはすべてラスキン氏本人が語っていることなので、史実としては正確だろう。こう見ると、Macintoshの父というよりは名付け親程度の関わりだったようだ。しかし、それでもこうして海を越えた日本でもたくさんの人々に追悼されるのだから、十分じゃないか。あらためて、その栄誉を讃えつつ追悼いたします。
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